【東日本大震災・医療支援】Dr.竜の医療支援記録⑥_2011.8.20~8.21_石巻日赤で最後の診療。通常体制で落ち着きを取り戻す。組織の壁を超えたチーム医療が救急医療を支えた

8月21日(土)
仙台まで新幹線「はやて」、レンタカーで石巻へ
石巻日赤病院で准夜診療

今回は仙台まで新幹線で行き、そこからレンタカーで石巻に入った。8月20日土曜日の12時40分発の「はやて」で仙台へ。仙台駅は賑やかで、震災の爪後はどこにも感じないほどであった、レンタカーを借りて、3時半に仙台出発。仙台東インターから高速に乗り、三陸道を河南で降りて、4時半に石巻日赤病院へ。

中央処置室にあるイエローゾーン前には既に多くの患者さんが待っていた。8月13日で外部の日赤病院の支援グループは全て引き上げて、石巻日赤自前の体制となっていた。外科医師、内科医師、研修医の3人体制で、土曜日は加えて夜10時まで小児科医師が加わるという体制である。自前体制になって初めて外部医師の私が加わっての医師5人、石巻日赤病院の看護師さん5人の准夜体制である。ホワイトボードと診療ボックスにはすでに私の名前が書き込まれていた。

深夜帯も慌ただしく

土曜日の日勤隊は66人の患者さんが来ていた。夕方5時からは忙しく、やはり小児の患者が多かった。小児科の先生の負担を減らすためにも、多くの小児患者を診察した。季節のせいか喘息患者はほとんどなく、風邪、怪我、捻挫等の患者が多かった。打撲でもX線検査を希望する患者が多く、「必要ない」と説明しても納得しなかった。これだけ放射能被害が叫ばれている中、検査を希望するのは日本の特徴かもしれないと思いながらオーダーをした。しかし放射線技師が少ないせいか、X線撮影をするのに時間くらいかかりかなり大変であった。

夜10時過ぎからかなり患者が増えてきた。レッドゾーンも病棟の方も忙しそうで、イエローゾーンからの入院もあり深夜帯が近くなっても、慌ただしさは変わらなかった。しかし、ほとんどが石巻日赤病院のスタッフで運営されているためか、いつもより落ち着いた感じである。私は急性膵炎の患者を入院させて、本日の勤務終了。准夜帯で60人の患者でやや、少なくなった感じだった。例によってコンビニでビールを買い込み、テントで一人乾杯して熟睡した。

道の駅で野営する

被災者の医療費についてのお知らせ

8月22日(日)
石巻日赤病院で最後の診療
組織の壁越えて連携、日本医療の進むべき道をみる

小雨が降っている中、道の駅「上品の郷」でのんびり朝食をとった。一時機よりは少なくなったが、道の駅で夜を過ごす方は相変わらず多いようだ。8時半から本日の勤務開始。日曜日は、やはり外科、内科、研修医に加え、医師会の先生に私と5人体制である。しかし今日は出足が鈍く、かなり暇であった。前回も、日曜日は私がいる間は暇だったが、いなくなったらかなり忙しくなったので「今回は夜まで働いて行け」と顔馴染みとなった女性医師からお誘いを受けた。しかし、夕方7時から千葉で宴会の予定があるのでと、やんわり断わったが、今回が最後の石巻日赤病院での診療だと思うとかなり寂しい気持ちになった。

4~5月は高血圧や、不安不眠を抱えた患者さんが多かったが、精神的に落ち着いた時期に入ったのか、単純な上記道炎や怪我などの患者が主体となった感じである。昼12時半頃に、喘息の小児患者が来たが、吸入を指示し後は石巻日赤の若手医師に依頼して、5カ月余にお及ぶ診療支援に一区切りをつけて日赤を後にした。近くの酒屋で石巻の酒『一の蔵』を買った。前回やっと手に入れた『日高見』はなかったが、現在私が院長をしている「浦安ふじみクリニック」の大バーベキューパーテイの盛り上げに役立つことは間違いないであろう。石巻の一日も早い復興を祈念しレンタカーで仙台駅に向かった。仙台駅で牛タンと生ビールで乾杯したのは言うまでもない。

今回、石巻日赤病院で種々の組織の医療チームが協力して救急診療に当たるという経験を初めてした。組織の壁を越えて医療を協力して提供しあうことが、東北地方のみならず医療崩壊が叫ばれている日本の医療の進むべき方向であると確信した。

震災から5か月。道も整備された。

津波で散乱した車も片づけられる

仮設住宅も整えられた